トニオ・クレーゲル:T章−T


 裕福な家の子として生まれたトニオ・クレーゲルは、
少年時代から哀切なものに心を惹かれる精神的な傾向の持主であった。
実生活においてはとても不器用だが、すでに芸術的な天分を持っていて、自分でもそれを自覚していた。
詩作やヴァイオリン演奏を趣味にし、夢想に耽ったりすることに楽しみを覚えて、
独自の繊細な芸術的感覚を鋭くとぎ澄ませていく。

   あの噴泉、胡桃の老樹、このヴァイオリン、それから遠い海、
   休暇になるとその夏らしい夢の数々をそっととらえることの許されていたバルチック海、
   彼が愛したのはこういうものだった。
   彼はこういうもので自分のまわりにいわば垣をめぐらせた。
   そしてその中で、彼の内面生活がくり拡げられていった。(12)

 しかし、トニオのこうした傾向は、彼を取り巻く同級生や、
市民社会の目には一種異端なものと映らざるをえなかった。
なぜなら、市民社会の常識からいくと、健全でまともなもの、
その典型的な模範像は彼の同級生ハンス・ハンゼンであるからであった。
ハンス少年は、明るく活発で健康的な、いわば若い生命力の象徴ともいうべき存在であった。

   ハンス・ハンゼンは優等生だった。のみならず元気のいい少年だった。
   まるで英雄のように、馬にも乗れば泳ぎもする、体操もする。
   そして誰からも可愛がられていた。(14)

 トニオはというと、ハンスとは正反対で、学校でも落ちこぼれ、スポーツも駄目、
いつも憂鬱な気分を心に漂わせていて、まっとうな健全さとはまるで無縁であった。
それ故、ハンスとは違い、同級生たちから受け入れられることがなく、孤独であった。
彼らからは疎外されたアウトサイダーたる少年時代を過ごしていた。

 しかし、トニオは同輩の形作る世界に入り込めない自分を一方では、もっともなことだと考えてもいた。

   ……一体己はどうしてこう風変りなのだろう。
   万事に折合いが悪く教師たちとは喧嘩をするし、ほかの連中からは仲間はずれだ。
   あの善良な生徒たちや手堅い平凡な連中を見るがいい。
   あの連中は、教師たちをおかしがりもしないし、詩をこしらえたりなんぞせず、
   誰もが考え、誰もが大きな声で口に出せるようなことだけしか考えないのだ。
   あの手合いは自分らをまともだと思い、
   人とも世とも和合していると思っているのにちがいないのだ。
   さぞかし具合のいいことだろう。(13-14)

   いやどのみち、自分にはあらゆる点で風変わりなところがあるのだ。
   自分は孤独で、きちんとした平凡な人たちからは仲間はずれにされているのだ。(19)

 トニオはこのような認識を常に抱えていた。
しかし、自分は仲間はずれにされながらも、正反対に誰からも愛されて
この世とうまくやっていけるハンス少年には、いつも心惹かれるものを持っていた。
ハンスは、自分たちの社会の常識的な目からそう捉えられるだけではなかったのである。
彼に誰よりも強い愛情を抱いているのは、他ならぬトニオなのだったのだ。

   ひょっとすると――ハンスにも詩を書かせることができるかもしれない。
   ……いやいや、それはいけない。ハンスは自分のようになってはならない。
   ハンスには今のままでいてもらいたい。皆が愛し、とりわけ自分が最も愛しているような、
   明るい強い人間であってもらいたい。(21)

 しかし、トニオ少年の級友への愛は報われることはなかった。
詩や音楽とは無縁の世界に住むハンスには、繊細で感傷的な精神とは馴染みがなく、
トニオの心を理解することが出来なかったからである。
それどころか、デリケートな少年の心は、軽蔑と当惑の入りまじった快活な無関心さによって、
いつも傷付けられていた。

 トニオは、ハンスのために悩み、苦しみ、早くから身に染みて人生の苦悩を味わっていたのだった。

   つまりこうだった、トニオはハンス・ハンゼンを愛していて、
   そのためにもうこれまで幾度か苦悩をなめてきたのである。
   最も多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ
   ――トニオの十四歳の魂は、すでに人生からこの単純で過酷な教訓を受けとっていた。(11)

 しかし、トニオはハンスに受け入れられることがなくても幸せであった。

   そのころ、彼の心臓は生きていた。そこには憧れと、憂鬱な羨望と、
   それから少しばかりの軽蔑と、清らかに豊かな幸福感とがあった。(22)