トニオ・クレーゲル:V章−T


 リザヴェータ・イヴァーノヴナとの対談後、トニオは旅に出て、十数年ぶりに生まれ故郷の町を訪れた。
名門市民の家の子として育った、父の町に対する激しい郷愁に駆られてのことであった。

 ところが、そこ故郷の町で彼は詐欺師の嫌疑をかけられて、
警官に危うく逮捕されそうになるという、思いもかけない奇妙な事件を体験することになった。
彼の、芸術家とは詐欺師まがいの信用のならない人間であるという持論が、
現実にして実証されることとなった。
しかし、トニオは警官から尋問を受けている間、事実とは全く無関係の立場であるにもかかわらず、
特に容疑を否認することはなかったのである。

   いや、彼には全くその気がなかった。
   それに公民的秩序を重んずるこの連中に結局のところは分があるのではあるまいか。
   ある意味で彼にはこの人たちの気持ちがよくわかっていた。(69)

 公民的秩序を重んじる市民の目に、トニオは怪しげに映ったのだろうか。
しかし、ここでそのことを自覚しているのは、まず彼自身である。
芸術家自身の内省が、市民に対する疚しさを自覚して、この認識につながっている。

 この一件でトニオは落ち込みながらも、さもあるべきだと考え、さらに北上の旅を続ける。
道中の海を渡る船の中で、次に彼は一人の若い商人に出会った。

 この男はトニオに向かって突然、夜のきれいな星空を見上げて芸術家気取りに、
詩人じみたことを話し始めたのだった。

   これはたまらん……いや、こいつは詩文無縁の衆生だな、
   とトニオ・クレーゲルは考えた。(73)

 トニオがこう思ったのは当然で、彼は心臓の生きている俗人のくせに、
心臓の死んでいる芸術家を気取るような輩を軽蔑していたからである。

 ところが、ところが、しばらくの後に、トニオにある変化が起こったのだった。

   トニオ・クレーゲルはすべてこういった相手構わぬ馬鹿話を、
   打ちとけた親蜜な気持ちできいた。(73-74)

 U章の少尉の時とは全く対応が違っていることに、
トニオの中に明らかな変化が生じていることが読み取れる。