トニオ・クレーゲル:W章−W


 私がここまで取り上げてきた「芸術家」、「俗人」たちは、
それぞれが同じ一つの概念の下に集結してはいるが、
彼らはいわばその概念の要素を少し異なった形で持ちえる者たちであったことが言える。
トニオが旅の最後にリザヴェータに宛てた手紙における俗人への正反対の二つの感情が、
俗人概念のそれぞれにおける隔たりを意味していて、全てを物語っているのである。

 トニオは、俗人のある部分には「俗人どもは愚かです。」(95)と言う。
しかし、他の一部に対しては「文士を詩人に変える力があるならば、
それはほかならぬ人間的なもの、平凡なものへの、この私の俗人的愛情なのですから。」(96)と述べる。
愚かな俗人と、愛されるべき俗人がいる。
そして、前者と後者の俗人の違いは、最後まで示さずに物語は幕を閉じるのである。

   また、この二つの概念はけっして論理的に純粋なものでもない。
   多くの矛盾があり、それだからこそこの作品が、若いと同時に生きているものとなっている。4)

 『人と思想トーマス・マン』の著者、村田經和氏は、「芸術家」と「俗人」の概念をこのように捉えて、
概念の矛盾によって、作品がより良きものに仕上げられていると述べている。

 私は、概念の非整合性を取り上げて指摘してきた。
しかし、それはそもそも整合的である必要はないのかも知れない。
私だって、トニオの心理に共感でき、理解できるのである。
誰でも、特定の対象に他とは違う特別の感情を抱く場合だってあるのだから。
そして、それはもしかしたら自分の中でも説明がつかない正体不明の何かが、
そういった感情を作り出しているのかも知れないし。
そういった意味では、『トニオ・クレーゲル』の矛盾する点も素朴に理解がいくことなのかもしれない。

 そして、これらの矛盾していることから分かってくるものもあるのではないか。
それは、作品中で言われている「芸術家」と「俗人」のそれぞれの概念が、
その定義どおりのそれぞれを意味してあったり、それらのうちの一部分しか指していなかったりすることが、
いったい何を意味しているかの答えでもあるだろう。
作品の首尾一貫性を壊してまで、作者が言いたかったことは何なのだろうか。

 私の考えでは、トニオが一部の俗人に対して強い愛情を持っていたことが、
全ての由来になっているのではないかということである。
なぜならば、それはトニオの中であまりに大きな存在として根付いていたものだからである。
この愛は、トニオという一人の人間の核心たる部分に存在しているものであった。
つまり、トニオにとってはこの愛が全てで、愛ありきでトニオの存在はあったのである。

 だから、「芸術家」と「俗人」を定義づけする時、この愛の影響は必ず影を落としていた。
よって、定義が整合的なものとなっていなかったのである。いや、なるはずがなかった。
「俗人」を思い浮かべる時、そこには必ずハンスやインゲの姿が存在していたのだから。
定義があっての「芸術家」と「俗人」ではなく、愛があっての「芸術家」と「俗人」であった。

 この愛はトニオの中の核に存在している以上、決して拭いきれるものでなく、
また、絶対に捨てきれるものではなかった。
そうして、トニオ自身、この愛は否定すべきでなく、
素直に受け入れなければならないという結論に達した。
そこからトニオはこの愛を持つ者こそが、いわば「真の芸術家」であるという答えを導き出したのだ。
そしてこれは、トニオが自分こそは「真の芸術家」であると言いたかったものと思われる。

 そしてそれは同時に、トニオは、「芸術家」と「俗人」の対立において、
「俗人」を愛することによって、「芸術家」としての自身の価値も高められるという、
最善の対立の解決策を見つけ出したのではないだろうか。